2005年11月09日

続:1

久しぶりにむつうへ行った。治療というより、借りてた本を返しに行けとカミさんにせっつかれて行ったという感じ。あそこに行くのはこれで最後にするつもり。一応、施術してもらってきたが、もう効いた感じはしなくなってしまった。一緒に借りていた波動ペンダントも返してこようと思っていたのだが、もう少し身に着けていろとのこと。また来い、ということか?穿った見方をすればね。

会社にもポツポツ行っているが、現世に触れていると「あー、ここには色んな奴がいるんだった。」などと思い出す。仕事をしていなければ会いたくない人には会わずに済むが、そういう意味では自分好みの世界を勝手に構築出来るわけだ。会いたくない人には会わないって、社会生活をしているとほぼ無理だ。

でもま、そういう好まざる人間関係も含めて人は成り立っているんだと思う。様々な関係性の他者が居ない状況では自分自身がどんな形をしているか測る意味を持たないし、第一つまらない。休業ど真ん中に居たときは、自分の脳みそ内に不自然で新陳代謝できてきない匂いが充満していた。自分の中に自動生成される「会いたい人」と「会いたくない人」の分類箱をいかに取り去って、個々の関係性それぞれの独自性に面白味を見出せるか、が楽しくやれるかどうかのコツなのだろう。

しかし、攻撃的なもの言いをする人、常に焦った発想をする人、多いなあ。毎日ぐうたら暮らしていたら、世の中の人々がそう見える。自分もまた日常に戻ればあっち側へ寄ってしまうのだろうか。気持ちが変われば目に映るものも違って見える。今と、ちょっと前の、その違いを比べられるのが日記の楽しみなのだ。
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2005年10月31日

最終回?

明日、遂に会社に行くことに決めた。月が変わって区切りが良く、保険等の計算がラクだからだ。普通の会社ならアドミに任せておけば間違いはないのだろうが、我が社は意図的な間違いと間違い的な間違いがいつ起きてもおかしくないので、要注意だ。そういう金銭的な事務処理は幾つになっても苦手だ。

そういうわけで、このブログも最終回だ。腰痛で寝込んでいると失うものは多い。立てていた計画を多数変更せねばならないから。そこで、転んで転びっぱなしではイカンと思って考えた無理矢理なメリットが禁煙と、この日記をつけることだった。小さな峠越えだったが達成したように思う。

毎日、他人に何かを伝えるという機能を持たないことが目的の、薄い駄文を書き連ねていると、レポート的な文章からでは得られない自分との対峙が見える。まず第一に歳をとったこと。別に歳をとることに全く引け目は感じないが、意図していない変化をしてしまったことへの気づき、である。

具体的には、まず人並みに見聞してきたことによってか、ハッキリとしたもの言いが出来なくなった、若しくはしなくなった、ということ。今でもカミさんなんかには、裏付けもないのに言い切る奴だと言われるが、昔はもっと宣言しちゃってた気がする。多少なりとも他人のスタンスとか、そうせざるを得ない状況、はたまた利害にまで考え及ぶ範囲が広がると、言い切るには躊躇する。結果一つのことを語るのに、その事物の周囲をぐるりと周回しながら語るような妙な切り口になってしまうのだ。

そうすると、自ずと言い口を和らげるような修飾語が増える。「多少は」とか「〜な気がする」とか「場合によっては」などね。他人の立場を集めて売るような仕事をしている人間(ex.政治家)じゃないんだから、ハッキリ言っちまえよと思って後で訂正することも多い。

他人とのコミュニケーションに関して言えば、若いというだけで幻想を持っているものだ。事実、若いが為にあり余るほど時間を持っており、故に実現してしまうコミュニケーションもある。しかし、歳を負うごとに他人に伝えられるイメージの質量はそれ程多くないことに気づき、伝えたいことは複雑になり、妙に歪んだ形を形成する。ちょっと疲れてたりしたら、もう諦めムードが自分を覆って黙りこんでしまうのだ。

体力が精神力にぶら下がることに気づいてからは、運動量を増やすように心掛けているけど、意味のない元気さを常に保つことは、もう難しい。伝送量が減ることについては諦めるとすると、残る道はシンプルな物言い、だ。今日もここまで文を連ねてきたけれど、上手くモノを書く人間ならほんの数行で同じ情報量を持つイメージが伝えられるだろう。きっと、それはテクニックではないと思う。諦観と熱意と、それを支える馬鹿さ加減である。諦観とは、誰でも自分自身がいちば近しい生き物で大切なんだけど、同時に世界を構成する小さな部品であることを認めてしまうことだ、と補足しておく。

・・・いいのか?言い切りの語尾で。
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2005年10月30日

思えば遠くへ

高校時代の友人の結婚祝いと称した飲み会に行って来た。お似合いの二人にして、目出たい。本人は「ノリだよ、ノリ!」と叫んでいたが、そういうのも大事かもしれない。往々にして、自分の身の回りのことは大事にし過ぎると失敗する。

卒業して10年も経つだけあって、当初は微細だった各々の軌道のズレはかなり大きくなっていた。普通に暮らしていたら接点がないような仕事をしている者も多いし、まあ仕方のないことだ。数年前までなら話題にしなかったような、当時の思いで話を語り始めた辺り、皆一様に歳をとった。

多角形を為す一つの事象を見たとしても、立ち位置が違えば違う形に見えるかもしれない。毎日仕事に集中していると、違う立ち位置から眺めてみたり、裏側を想像してみたりするのは難しい。こうして毎日寝て暮らしている暇を持ってしても、簡単ではない。

人生の中で一つの目標を計画するために、自らの死の瞬間から逆算するのか、いま出来ることを積み上げて発想するのか、自分にはそんなに大きな違いには思えないが、死の瞬間を意識して暮らすということは、人間らしいのか、それとも命への冒涜なのかという話になった。我々自身も多角形を為しているが故、考え方にしても多様だが、今日も人間は他人から隠れて排便するし、地面の皿から直接メシを食うことはないのである。
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2005年10月29日

酩酊

Boyosyaが閉まって以来、お休みしていた「BEAT TIME」がBodegaで復活。お邪魔してきた。横浜界隈では珍しい、どテクノなパーティだ。元々Boyosyaに置いてあったサウンドシステムもBYSサウンドとして復活し、懐かしい音を響かせていた。途中、いつものマイヤーズと、誰かが入れたテキーラをちゃんぽんしてたらかなり酔いが回っていい気分。明け方、moveに軽く顔出して帰ってきました。タクシーに乗るところまでは覚えてるんだけど、その後は前後不覚。まだアタマ痛いな。
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2005年10月28日

二俣川の怪

寝込んでいてずっと行けなかった運転免許の更新のため、二俣川まで行って来た。これほど人を不快にさせる施設もそうはないから、できることなら行きたくはないのだが、前回の更新で失効させてしまった自分を呪うしかない。どう考えても効率の悪い人の流れ、並んでるとはーはーと息の荒いおっさん、洗ってないテントの匂いがする兄さん。極め付けは燃えるゴミ箱に痰を吐く教官。おええ。そんな中にたまにモデルみたいな女の子がいたりするから不思議な空間だ。被災地の避難所に行ったらこんな感じなのかもしれない。

今回、失効した理由はれっきとした椎間板ヘルニアで、診断書も持っている。しかし、この診断書というのは数行ちょろっと書いてあるだけで三千円もする。免許の更新はただでさえ、やっつけでやってるような講習に高い費用がかかるのに、この診断書まで持ってかれたらかなわない。これまでかかった医療費なんかと比べればしれた額なのだが、何となく悔しいじゃないか。こういう警察絡みの機関にはちょっと困らせてやりたい気持ちを常々持っている。

あらかじめコピーをとっておいた診断書を提出してみると、案の定、原本を提出しろと言われたので、コピーで何の問題があるのかと楯ついてみた。したらば、それはあなたの言い分で原本が必要なのだ等と宣う。そりゃ自分が言いたいことを言っているんだから私の言い分に決まってるし、そもそも説明になってない。引き続き病気であることの証明はコピーで可能だし何とかしろと押すと上司が出て来て、特別ですよ、とか言いながらも通してくれた。それでいいなら最初からすんなり通せ、馬鹿共め。

法定講習という名のぼったくり映画に見栄晴が出ていた。教官は軽く自慢げに、出来たての新しい交通映画で私もまだ20回しか観ていないと語った。自分なら20回観たら発狂するかもしれない。
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2005年10月27日

夕方になって晴れ

昨夜はカミさんがどうしても焼き鳥を食いたいと言うので、近所の「バード」へ。前回行ったときは静かに飲んでいたのだが、マスターと横浜に住んでいるジャズミュージシャンの話になり、ついつい長居。TBMレコードから作品を出していた今田勝がライブをしたことがあるという。開店と同時くらいに入ったのに気がついたら深夜2時を回っていた。我々のいた6時間の間、他に客の姿を見かけなかったが、この店は大丈夫なのだろうか。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み終えた。何故だかなかなか読み進まなくてかなり時間をかけて読了した。学生の頃に彼の他の作品を読んだときは、その世界に共感を覚える部分もあったし、それなりに入り込んで読んだ気がする。それが10年近く経つと、同じ著者の作品でもリアリティを失うこともあるのだな。古綿を頭に詰め込まれたようだ。失ったもののことばかりを考えて残りの人生を暮らすには僕らは無力すぎるし、何より青年の苦悩を中年に持ち越すわけにはいかないのだ。

韓国映画「ワイルドカード」を見た。刑事同士の人間関係と、犯罪者に対する憎しみをシンプルに描いていた。犯罪の増加する社会の風刺的な雰囲気もしている割には、単純な筋で、ステレオタイプなきらいはある。テレビドラマだったならよく出来た方か。

来月からリハビリを兼ねて通う予定のジムへ申し込みを済ませ、横浜の地下にあるげんこつ屋でラーメンを食べてきた。スープはとんこつで麺も太く、悪くはないのだがスープがぬるかった。ダシが薄い店も嫌だが、ぬるいスープは許せない。美味しいラーメンの条件は、

一、スープのだしが真っ当であること。
一、火傷するほどに熱々であること。
一、麺はコシを保った茹で加減であること。
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2005年10月26日

余裕について

近所のスーパーでステーキ用の肉がバーゲンになっていた。2枚で300円のが更に半額。昨夜はそれを焼いてみた。輸入ものの赤身だったが、さっぱりしていてそこそこ旨かった。あんまり脂っこいのはちょっとね。それにあわせてウインナーとキャベツと人参をコンソメで煮込み、ワインを合わせてちょっとしたご馳走気分だ。愉しみとは手間をかけることであり、余裕とは自分で作るものなのだ。ただ、仕事をしている普段の生活ではなかなか難しい。それはあくまで気持の問題だと分かってはいるのだけれど。案外、その気持の問題を支えるのは健康と体力かもしれない。
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2005年10月25日

復帰の時期読み

会社と打ち合わせをして、来週から職場復帰するのはほぼ確実になりそうだ。毎日ゴロゴロできるけど自由がきかない生活と、面倒な仕事をせねばならないけど遊びにも出られる生活なら圧倒的に後者を選ぶ。仕事に行き始める前に、失効している免許の更新に二俣川まで行かねばならない。大変面倒臭いが、大家さんのやってる焼き鳥屋が二俣川にあるので帰りに寄るのもいいかもしれない。珍しい白レバーがあるのだ。

午後になって、近所の100円均一にレトルトのご飯を買いに出た。大盛りでも100円というのはすごい。250gもあれば朝食と昼食の2食分だ。私は朝と昼は小食なのだ。これだともう、いちいち米を研いで炊くのが馬鹿らしくなる。もちろん味はレトルトだが、納豆やらカレーやらをかけた上に寝惚けていたりしたら関係なくなる。

道を歩いていると、ウチの近所は大通りが近いせいもあり、沢山の車が走っている。その中に以前よりは減った気がするがスポーツ・カーも見かける。彼らは何と非現実的な形をしているのだろう。あまり好きにはなれそうもない、流線形のデザインは何の為に存在するのか。早く走れるからといっても、これだけ渋滞する世の中だから目的地に早く到着できるわけでもない。だいいち狭いし、燃費は悪いし最悪だ。でも、それらを所有することによるハードボイルドな感じは、好きな人にはたまらない自己顕示なのだろう。周囲を見渡すと、こういう一人遊びが可能な趣味は進歩がめざましい。反対に、人と関わることについては利便という名の退化が進む。同じ道具を持ってしても、人間はラクなその使い方を選ぶものなのだ。
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2005年10月24日

市場の原理

近所のコンビニに一刻者(いっこもん)が置いてあったので、買って来て飲んでいる。芋焼酎は飲みやすいから好きだが、ウイスキーほど銘柄による違いが大きくないように思う。ちょっと甘味が強いとか、若干スパイシーとかね。プレミアついたやつを血眼になって探したりしてる人をたまに見かけるが、果たしてそれはどうなのかと。あればいいけど無ければ無いで、くらいのスタンスが丁度良い気がする。ヤフオクなんかでセミプロみたいな連中が差額で儲けようとしてるのがあるが、もってのほかである。飽くまで嗜好品なのだから、格好良く嗜みたいものだ。

屋久島で気に入って買って来た三岳も、現地に行けば地元のおっちゃんがたむろしてるスナックなんかに天井まで積んであるのに、こっちではプレミア焼酎扱いである。需要と供給のバランスで市場が成り立ってるのは分かるが、意図せずともそういうのに関わらなければならない場合があり、正直疲れちゃうのである。
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2005年10月23日

目的

そもそも、音楽の最終目標とはいったい何なのか、と。

最終的な大目標と、それを便宜的に分割した小目標があって、それらは自分の理想を当然反映した形をしている筈だが、イコール仕事に直結している人間がどれだけいることか。仕事にすれば、それに関わる時間は嫌でも増えることになるから、それゆえ生活の糧とすることによって実現の可能性を高くすることができるが、急ぐ程に本道を外れて道に迷う可能性も増す。

DJ(DJ的な音楽との関わり方ってのを含む)を一生懸命やってる人って何を目指してんのかと、ふと疑問に思った。自分名義のレコードを沢山売ること?シンパを増やすこと?大勢で一つのことを分かちあう?金持ちになりたいってのや、モテたいっていうのも非常にロックな発想で悪くはない。

楽器をやる人間よりも、「曲を選んでるだけの表現」っていう概念が妙な多岐への渡り方をしてるその存在は面白い。良い音を出す(良い曲を選ぶ)、良い空間を作る、良い人間関係を演出する。気持よく暮らすって凄く大切なことだけど、「大切なんだ」って声に出す人は少ない。選ぶっていう表現はそこに需要があるのだ。


先日の通院で医者からそろそろ運動しても良いと言われたので、水中歩行でもしようかと、ジムを探している。馬車道のGOLDジムへ見学に行った。値段の割りに狭いしプールも小さかったので、平沼橋のプールがメインのジムに通おうかと思う。今から思うと大口のメガロスは値段も手頃だったし、広くて綺麗で良かったな。馬車道からクイーンズスクエアまで散歩して、フォー食って帰ってきた。ナムプラー、フォー!(HG)
posted by abesin at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 旧ひとるごちる
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