2006年12月25日

撤回1

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女流作家の本は面白くないと言ったそばから、徹夜で読了した本があった。浜なつ子著"アジア的生活"だ。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9973871723

この作家は新聞記者畑で叩き上げ、自分の感覚に素直な場所にいたらこういう本ができました、というスタンスなのだが、日本人を含むアジアに棲息する人間への垣根、隔たりを感じさせない文体が染みる。非常にオープンなのだ。

ちょっと前にがっかりした本で、ミステリ作家が書いた紀行文があったが、これは逆に読んでいて閉じていると感じた。それは、異文化に触れた際に、そのことを記述するためにあくまで自分の物差しを用いて読者に伝えようとする姿勢からくる。異文化と言ったとき、それはどうしても文字通り異なるもので、読んだだけで伝わる情報量たるや、想像に難くない。ビールを飲んだことがない人間に、その醍醐味を伝えることが困難であるように。そこでなんの蟠りもなく自己のものさしを持ち出してくるところに、女性特有というべき言い回しがついてくるのである。

妻帯者としての自己弁護ではないが、女性の方が自己のスケール感は秀でていると思う。理屈ではないところで、妙に説得力を持っているのはそのためだ。しかし、敢えて活字として読む著作に於いては、そこから先の何かを期待するものであるので、「買い物以外に視点はないんかい!」となってしまうのである。ああ、こんなこと書いたら怒られるな。女性と表現しているが、そういう男性作家も多く存在することを付け加える。

話は脱線したが、浜なつ子氏の視点で特に感慨を覚えたのは、金銭的に貧しい人々への、金銭的に優位に立つ者のスタンスについて、の記述である。これは難しい視点で、多くは偽善者、場合によっては偽悪者という居心地の悪い論点に取り敢えずの結末をみる纏め方になってしまう。

僕ら日本人は平均的収入の人間であっても(それは日本では下層なのだけれど)彼らのひと月分の収入など「まあいいか」くらいの感覚で出せてしまう額である。その金額で生死を分つ事態に直面している同じ人間と対峙したとき、哀れんで金銭を喜捨するかどうか、誰しも深く鑑みるシチュエーションだ。自分が何とも思わない額で、目の前の死に瀕している人間を少なくとも今は死から遠ざけることができる。しかし果たしてそれが正しい行いなのかどうか。

フォリピンの低所得者層では、少しの金があると空腹を紛らわせるために食物ではなく覚醒剤を求めるという。また、小乗仏教の教えからか、それとも民族性からか、今日の余裕があれば近隣に分け与えてしまうという。一度分け与えはじめれば、近隣との繋がりを重視する非資本主義的なコミュニティでは、明日施しをしないことは難しくなってしまう。その土地ではフォリナーである私達には想像できない、その土地のリアリティがいつも存在していることを、理解できなくともそこにあることが認識できているかどうかでつまらない人間の上下を作らずに済むのではないかと思う。

もしかしたら、そういう葛藤は永遠に答えが出ないのかもしれない。自分が逆の立場に立ってみれば、飢えている自分に他人から得る施しを諸手を上げて受け入れられるかどうか考えてみれば分かる。しかし、その葛藤そのものからくる苦悩というか、精神の立ち位置をストレートに提示することによって読者にも考える機会を与え、未来に光を模索する読後の渇望が、読書というコミュニケーションの在り方を感じさせる一編である。

金銭、という側面から書くとこういうことになるが、この著作には金はあるけど足りないものを感じて東南アジアに住み着いてしまった日本人に関する記述も多く見られる。足りない、のはいつも金銭ではないのだ。金銭だけ満ち足りて、それでも不幸な日本人は、オツムが足りないのである。
posted by abesin at 05:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類
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