2006年08月14日

内と外について

人を見た目で判断しちゃいけません、と多くの童話には書いてある。多くの人たちはそれを理解していて、私もそうあるべく努めているつもりだ。では果たして何を基準にしているのか。なんとなく、というのもある種の答えではあるが、それも解像度を上げて眺めると感覚的基準と感覚的判断の集合体に過ぎないので、突き詰めると何らかの材料に分類されることになる。

いきなりではあるが、結局のところ、コミュニケーションは言葉(私の場合は日本語)が多分に占めるため、記号と象徴の羅列である言語そのものが判断基準の大概を占めてしまっている。そして、ここからが重大な問題なのだが、その中身よりも言語の流暢さに傾いてしまっているということ。それは見た目で判断しているのと何が変わるのだろうか。言葉が表現作品、職務経歴などに置き換わってもそれは同じだ。器用に虚飾できる人間とそうでない人間とでは、グラフの目盛り自体の単位が変わってきてしまうので、一元化して比較することはナンセンスである。

Y女史はすぐに切符をなくしたり、外出3回に2回の割合で携帯電話を忘れたり、困ったちゃんである。しかし、食い物屋でここぞというときはハズレをひかないし、他人へのプレゼントなども失敗が少ない。私は産まれてこの方、財布を無くしたことはないし(インドの空港ですられたのは別にして)、急行と各駅を間違えたりしないのだけれど、プレゼントを選ぶのが下手である。

適当な相づちのレパートリーを幾らか持っていて、感じの悪い奴と言われることは少ない私であるが、本来は肉弾戦である筈の人生に於いて、強靱な人間力を持った彼女らを羨ましく思う、今日明け方。経験則に則り門構えでレストランを選ぶことに間違いがないと仮定すると、人間の顔かたちに刻まれる情報は時間的縮尺が大きく(長く)なるぶんだけ、雰囲気で他人を判断しちゃう方法もまともにも思えてきた。要は、経験則蓄積のクラスタである感覚野が濁っているか否かに問題の根っこがあるのである。

うーむ、新しいことを思いついた気がしたけれど、いつもと同じようなことを言っている。曲を作っているときと、同じだ。
posted by abesin at 05:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類
この記事へのコメント
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/56163523

この記事へのトラックバック
<< 2023年01月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
過去ログ