昨晩はそのまま川崎に泊まって、朝イチで宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観てきた。ふむ、これは国家の増長と社会の高度な専門化といった、不幸なあの時代の悲劇を美化してしまった胸糞悪い映画である。
主人公が描く飛行機への夢は、男は仕事という大義名分が巾をきかせた時代だからこそ成り立つ。仕事だからという言い訳がもしも無かったのなら、ただの道楽でありエゴなのである。仕事という言い訳についてさらに篩にかけてみると、高い給料、技術の先端を切り拓く名誉、軍備に傾斜した時代ならではの社会的地位と、どれをとっても妻の最期のひとときと引き換えにするには薄っべらい。残るのは男のロマン、ただそれだけ。オタクに妻帯する資格は無い。
監督にしてもその辺りに迷いがあることはスクリーンから感じないではない。しかし、ファンタジーの檻から出られない作風が災いしていて、前半の空を飛ぶことに対する夢想の描写がすべてを肯定してしまっている。確かに映像としては美しいけれど。見るべきところといえば、地震のシーン。その作画は歴史に残る衝撃的な体験であった。また、航空機や列車、バスの緻密な時代考証に基づいた音響も物語に説得力を与えている。あとカヨは可愛いなあ。
同監督のこれまでの作風からすると、線が単純化されて洗練が更に進んだように思う。御歳をもって進化する探究心には脱帽するけれど、それがこの歴史的な事実に基づいているはずの作品にファンタジーという言い訳を与えてしまっていることは不幸である。ところどころに見えるクラシックな映画へのオマージュも、らしくない。つとに引退宣言にも納得の駄作。
とはいえ、この観劇に後悔はなく、寧ろ貴重な体験としてもよいとだろう。それは時代の移り代わりと、それに伴う世代間の隔たりを見事に映像化した貴重な資料であるからである。どんな理由があっても、愛するつれあいに綺麗な姿だけを見せ、自らの死を隠す妻の姿なんぞ、これから先にあってはならない。死は隠すものではなく、ともに交歓すべき愛の瞬間なのである。まる。
posted by abesin at 23:59|
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