2013年04月30日

無題

しばらくうちに滞在していた、というか軽く住んでいたAちゃんが東京に帰っていった。近いうちにまたやってきそうな勢いであったが、次はダンナも連れてきたらいい。


今日は主権回復の記念日だそうな。

どうも、あっちの人たちはそういう風にして国の誇りなんていう、なにそれ食べれるの?なものを盛り上げようとしているようだけれど、見当違いも甚だしい。

今日は61年前、沖縄をトカゲの尻尾のように切り捨て、一方的な安保を飲まされた日である。その上、衣食住すべての文化の根源にある稲作をTPPで滅ぼそうとしている破壊者が、掴みどころのない誇りや尊厳なんてものに意味を持たせようとしていることに鼻をつままざるを得ない。
 
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2013年04月29日

自給率と層の厚さ

先月まで旅してきた、タイの屋台は相変わらずバラエティに富んでいた。

メニューも豊富だし、プロの技から家庭の味まで、層が厚い。しかし、お隣のマレーシアはイマイチだったように思う。人々の外食する文化や、飲酒習慣の有無も大きいとは思うが、タイの食糧自給率200%、マレーシアは50%弱という、その差が大きいんじゃないかと仮説してみる。

食材をわざわざ仕入れてきて屋台を始めるという行為には、商才であるとか資本が必要だ。しかし、庭で採れたパパイヤと調味料を天秤棒に担いで人出のあるところに売りに行く商売の、なんと気軽なこと。ちょっと料理の得意な奥さんが屋台を出すのは造作もないことなのである。

もちろん、味や品質によって淘汰はあるが、食品衛生法に頼らずともご近所の評判によってものの確かさが担保されている。
この楽しさには、ちょっとかなわない。
 
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2013年04月28日

ふるさと産業祭

今日は尾之間でふるさと産業祭なるものが開催されている。

地元の産業を盛り上げようというコンセプトなのだろう、食べ物の屋台から工芸品屋や加工食品屋、地元の中学校吹奏楽部のステージなどがあり、全島から人が集まる。

今年はB級グルメコンテストなどという、テレビばっかり観ている人が発想したとしか思えない、いかにもつまらなそうな催しが目玉だそうな。コンテストのために食べ物屋台の出店は300円での販売に限定するなどと、子どもが楽しみにしている綿菓子やらを排除するルールが大不評となり、それは直前で曲げた。

コンテストの審査員長にはあの日本を代表するブラック企業、ワタミグループの渡邉美樹。これは主催者の島民に対する「途中で止めるから無理になる、鼻血を出しても途中で止めなければ無理じゃ無くなる、そのくらい働け、でなければ死ね」というアピールなのだろう。そういう人だと知らないで呼んでるなら無知に過ぎるし、夏の参院選を見越したドサ周りに上手く利用されている。

非常に残念である。

これまでなら、どれだけ残念な催しなのか、この目で確かめねばなるまいと義務感にかられて出かけていただろうが、最近はそういうのに関わっていたらキリがないのだから、放っておいて一人で遊んでいようと考えるようにしている。
 
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2013年04月27日

イソモンとり

遊びに来ているAちゃんTちゃんと、ご近所のIさんに案内してもらってイソモンとりに行ってきた。
今日は大潮。

いつにも増して、シャコ貝が大漁であった。彼らが海中で油断しているところを狙い、貝のど真ん中に磯串を突き立てると、裏側の岩に張り付いている部分の穴に抜ける。そのまま串をぐりぐりやると簡単に獲れる。

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今回はナマコも捕まえてきた。地元の人らは獲らないようで磯のあちこちにいるから、これが旨かったら明日から酒の肴に困らないな。

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保存しておいた鹿肉といっしょにバーベキュー。豊かなきぶん。

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2013年04月26日

鰹の三枚おろし

またまた漁師さんから鰹をもらった。
三枚下ろしも慣れてきて、皮の剥き方のコツがだんだん分かってきたよ。割りと力を入れて削いでも皮は切れないんだね。あと、剥く向きね。

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2013年04月25日

こめへん

辞書で米偏(こめへん)の漢字を眺めている。
米籵籾粁粂粐粋粃粉粍粗粘
粕粒粥粤粢粫粧粟粡粨粭粳粲粮粱糀粹精俄糊糂糅糎糖糒糢糘糠糟糜糞糧糯糲糴糶・・・

コメから遠く離れてしまった人間がニッポン伝統の文化とかなんとかね、ちゃんちゃらおかしい。かつて存在していた米食生活とそれにまつわる文化。それが別れ別れになったとき、博物館のガラスケースの中だけでしか存在できない脆弱なものになった。 

糸偏と竹偏もなかなか格好いいなぁ。
 
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2013年04月24日

竜神の滝

横浜時代の友人、Aちゃんが島にやってきた。移住以来、訪ねて来てくれた友人の第一号である。

さっそく近所の千尋の滝を一緒に見に行く。

しとしとと雨が降り始めて、滝までの山道をしっとりと濡らしていた。観光客の気持ちとしてはすっきり晴れていて欲しかろうけれど、こういう屋久島の雨の風情をいきなり体験してもらえて、こちらは嬉しく思っていたりする。

帰路、農面道を通り、龍神の滝に差し掛かると、彼女は車を降りて興奮したように橋の欄干へ近づいて行った。どうも有名な千尋の滝よりも、瀑布が近くに見られるこちらを気に入った様子である。飛沫が舞って雲のようだ。
 
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2013年04月23日

一物全体

ご近所のRちゃんの口から聞いた、「一物全体」という言葉が印象的であった。
インターネットの百科事典によると、

「一物全体」
仏教用語。生物が生きているというのは、丸ごと全体で様々なバランスが取れているということであり、そのバランスのまま人体に摂取することが人体内のバランスを取るのにも望ましいという考え方から、人間が食物を摂取する際、穀物を精白したり、野菜の皮をむいたり、動物の肉や魚を部分的に食用にするのではなく、できるだけ丸ごと食べるのが健康に良いとする考え方。 栄養学の観点からも、植物の皮や葉、小魚の骨は栄養が豊富である。


だ、そうである。

現代人はものごとを手早く理解するためのテクニックとして、ある部分を切り離して考える癖がついてしまった。病院にかかれば科ごとの縦割りな対応にうんざりした経験があるだろう。
これだけ膨大な情報にアクセスできる社会になると、マクロな視点だけでは茫漠として掴みどころがないから致し方ないとも言える。しかしそれが過度に進めば、とりあえずの取っ掛かりであったはずのパーツが内部で更に増大していって、一つのセグメントだけでも充足したような気になってしまう。

例えば音楽なら、現在入手可能なすべての音源からお気に入りを探そうとすれば、砂漠に落ちたコンタクトレンズを探すようなことになる。だから自分はどうもジャズが好きなようだとか、ロックがいいなあ、なんて絞り方をする。しかしジャズのカテゴリでも分け入っていけばスイング、ビバップ、モード、スピリチュアル、フリー・・・と密林の様相を呈しており、気づけばジャズが音楽のすべてであるような錯覚に陥る。

また別のある人は、縄文杉と白谷雲水峡を見て屋久島のすべてを理解したような気になってしまう。屋久島の森の例としては顕著な特徴が見られるかもしれないが、それはごく限られた一面であり、山以外にも海もある。

本来、人間が動物であったなら、一生のうちでこれだけ大量の情報と出会うことはなかったはずだ。それが文明の進歩によって可能になった。そして、限られた経験では得られないほどに多くの情報量を理解しようとしたら、どこかに分類や閾値を設けなくてはならない。それはある面では有益だ。

だかその受け皿となる肉体に心構えが出来ていないし、どう対峙すればよいかという哲学的な示唆も現代はまだ未熟である。自分の目に映る世界など全体のごく一部なのであると常に心に留めておく必要があるだろう。
 
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2013年04月22日

朝の春田浜

カミさんは通院のためにフェリーで鹿児島へ出かけて行った。泊まりがけの小旅行である。


理由はそれだけではないけれど、より自然に近いかたちでの暮らしを志向して屋久島にいる。

医療に関しては、その選択を目前に迫る性質から匙加減の難しさを具にする。究極の自給自足による自然な生活とは、物質文明から離れた山の中で、ライフラインのすべてを自前で賄い、病気や怪我の際にはそれも運命と諦める、原始的で野生動物に限りなく近い形だろう。

しかし、それは群れとしての社会性を拒否し、文明を捨てるために文化からも遠ざかることになる。文明との程よい距離とはこれ如何に。自活とはそれを探す試みなのである。


夜明けの春田浜で、雲間から差し込む朝日を望む。そんなことを考えながら、魔法瓶のコーヒーを飲んだ。
風が強くて少し寒い。
 
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2013年04月21日

横濱ジャズ研 at ちぐさ

伝説のジャズ喫茶「ちぐさ」で開催の、横濱ジャズ研をUstreamで観ている。

ジャズという音楽は、同じ音楽でも聞き手の世代によって違った聴かれ方をしている。同じ曲がまるで違うジャンルのように扱われることもある。

それだけ幅広い世代に長い間愛されているのは凄いことなのであるが、音楽という表現はそれ単体で成立するものではなくて聞き手の聴き方という要素が加わってはじめて完成する芸術だから、世代、人生観、ライフスタイルの違う人々が発見した様々な切り口を共有できないとしたら、ちと勿体無い。

その橋渡しをするというのは、横濱ジャズ研の存在意義のひとつであるが、この往年の名店で、DJという若いスタイルで興行したことで、その価値をまたひとつ高めたように思う。実際、普段はDJをしないと思われる某有名誌の元編集長がディスコミキサーを操って繰り出す音楽は、温故知新という表現がぴったりはまる世界だったと思う。

ジェネレーションギャップとは、常にネガティブなものではないと知った。
 
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