2011年08月31日

便利の代償

「不便」とは何ぞや。

文明国を標榜する日本で育った身としては、克服すべきものと教わってきた。いかに不便を少なくするかが国民総意の命題であるわけだ。敵と言い換えてもよい。

しかし不便を殺すために犠牲にしているものはないだろうか。


多くの場合、不便を便利に変えるためにお金を使う。より稼ぎ、より不便を討伐した者が勝ち、というゲームだ。


インドに旅した折、不便と上手く付き合っている人々を見た。我々の感覚からしたら、どうにも理不尽であり、不合理な不便と同居している。

それはその場ではどうにも附合がいかないと考えた。我々の物差しで測れば阿呆に見える。だが果たしてそう決めつけてよいものか。


高度化した貨幣経済の枠組みの中では、より稼ぐためには専門性を高く、他者との差別化を図る。結果、分業が高度化して、自分自身が歯車であることを暗黙に認めざるを得ない。そして歯車の使命を全うすることに腐心し、隣人の顔が見えない流通に終始する。

便利の代償として払っているのは、作り手から受け手への、顔の見えるコミュニケーションなのではないか。


知らない奴が作った物にはつまらないケチをつけやすいものだ。逆に知ってる顔が額に汗している姿を見たら、簡単に蔑ろにはできない。

便利とその代償は表裏一体となっている。過度の便利への追求は、同時に自らの首を締めていることを忘れるわけにはいかない。

便利の追求とは即ち消費。消費とは、その名の如く消えていくだけのことなのだ。
posted by abesin at 04:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類
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