
池谷薫監督の「蟻の兵隊」を観た。
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日本が犯した侵略戦争が1945年に終焉を迎えたのち、中国山西省に日本軍の温存と侵略の続行を目的に、少年兵を含む多くが残留させられ、中国内戦を戦い550名にも上る戦死者を出した。しかし、戦後4年も経ってから帰還した彼らを、日本政府は自らの意志で残ったものとして逃亡兵とみなした。ポツダム宣言に謳われた旧日本軍の解体に違反するため、現在も日本の裁判所はこの事実を認めていない。
先日の終戦記念日も我らが首相は靖国参拝を強行したが、いまだ戦争の後始末もできない政府(及び彼らを選んだ我ら)は、ある種の隠蔽を主張し、それを近隣アジア諸国に振り翳す資格はない。確かに、歴史の取り扱いは難しい。当時ですら、その本当の目的は巧妙に隠され、緻密な洗脳によって二十歳そこそこの兵員達に当たり前のように殺人訓練を施した。劇中にも、60年経ったいまだに拭えないその教育の賜物たる指向を発見し、戸惑う主人公の人物像を見ることが出来る。
世の事象は、大きく「死を意識させるもの」と「死を隠すもの」とに分類できる。話題のレストランに足を運ぶこと、綺麗な衣服を纏うことなど、現代は死を巧妙に隠している。ただ、それを一概に悪いこととは思わない。自分が創っている音楽も、死の恐怖から逃れるための機能を持っている。そうでもしなければ、毎日を怯えて暮らすことになるし、未来を展望する気持ちの高まりを持つことはできない。僕らはそれほど臆病に出来ている。しかし、死肉を食って我が身として命を繋いでいることも忘れてはならない。どちらか、ではないのだ。
この映画は、その両者が混然となって体を成している。かつて老人が現地の農民を刺殺した地に足を運ぶシーンでは、映像にこそないものの、荒れ地に死体の山が、流れる血が、脳裏に強烈な視神経を通さないイマジネーションとなって焼き付く。逆に、酷い暴力を受けた中国人老婆をインタビューするくだりでは、加害者であったはずの老人と、その向こう側にいる家族に対する同じ人間としての彼女の思い遣りを感じられたりする。それは未来への展望を含んだ優しい視線であった。(ここでは加害者という言い方は適切ではない。加害団体の一部であった、という方が正しい。)
我々人類が過去、そして現在に於いても犯している過ちは、時間の経過によって風化するものではないし、許されるべきことではない。現代の自分たちが出来ることといえば、「知ること」だけかもしれない。よくある戦争もののドキュメンタリーに出てくる老人は、語り部として、その恐ろしさ、愚かしさを若者に伝えようとするものである。しかし、この映画で描かれているのは80歳を過ぎてなお、その当時には目を背けてしまった事実を知りたいという、強烈な死と反・死に対する知への欲求を持った人物そのものの描写である。そして、史実を伝える教科書としての映像ではなく、「真実」に対する姿勢を示唆するメッセージである。老人、奥村 和一氏のそんな執念が、格好よくて、涙腺も涙を忘れた。