2006年08月26日

蟻の兵隊

Arinoheitai

池谷薫監督の「蟻の兵隊」を観た。
http://www.arinoheitai.com/

日本が犯した侵略戦争が1945年に終焉を迎えたのち、中国山西省に日本軍の温存と侵略の続行を目的に、少年兵を含む多くが残留させられ、中国内戦を戦い550名にも上る戦死者を出した。しかし、戦後4年も経ってから帰還した彼らを、日本政府は自らの意志で残ったものとして逃亡兵とみなした。ポツダム宣言に謳われた旧日本軍の解体に違反するため、現在も日本の裁判所はこの事実を認めていない。

先日の終戦記念日も我らが首相は靖国参拝を強行したが、いまだ戦争の後始末もできない政府(及び彼らを選んだ我ら)は、ある種の隠蔽を主張し、それを近隣アジア諸国に振り翳す資格はない。確かに、歴史の取り扱いは難しい。当時ですら、その本当の目的は巧妙に隠され、緻密な洗脳によって二十歳そこそこの兵員達に当たり前のように殺人訓練を施した。劇中にも、60年経ったいまだに拭えないその教育の賜物たる指向を発見し、戸惑う主人公の人物像を見ることが出来る。

世の事象は、大きく「死を意識させるもの」と「死を隠すもの」とに分類できる。話題のレストランに足を運ぶこと、綺麗な衣服を纏うことなど、現代は死を巧妙に隠している。ただ、それを一概に悪いこととは思わない。自分が創っている音楽も、死の恐怖から逃れるための機能を持っている。そうでもしなければ、毎日を怯えて暮らすことになるし、未来を展望する気持ちの高まりを持つことはできない。僕らはそれほど臆病に出来ている。しかし、死肉を食って我が身として命を繋いでいることも忘れてはならない。どちらか、ではないのだ。

この映画は、その両者が混然となって体を成している。かつて老人が現地の農民を刺殺した地に足を運ぶシーンでは、映像にこそないものの、荒れ地に死体の山が、流れる血が、脳裏に強烈な視神経を通さないイマジネーションとなって焼き付く。逆に、酷い暴力を受けた中国人老婆をインタビューするくだりでは、加害者であったはずの老人と、その向こう側にいる家族に対する同じ人間としての彼女の思い遣りを感じられたりする。それは未来への展望を含んだ優しい視線であった。(ここでは加害者という言い方は適切ではない。加害団体の一部であった、という方が正しい。)

我々人類が過去、そして現在に於いても犯している過ちは、時間の経過によって風化するものではないし、許されるべきことではない。現代の自分たちが出来ることといえば、「知ること」だけかもしれない。よくある戦争もののドキュメンタリーに出てくる老人は、語り部として、その恐ろしさ、愚かしさを若者に伝えようとするものである。しかし、この映画で描かれているのは80歳を過ぎてなお、その当時には目を背けてしまった事実を知りたいという、強烈な死と反・死に対する知への欲求を持った人物そのものの描写である。そして、史実を伝える教科書としての映像ではなく、「真実」に対する姿勢を示唆するメッセージである。老人、奥村 和一氏のそんな執念が、格好よくて、涙腺も涙を忘れた。
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2006年08月17日

Sleepwalker/the Voyage

Vovage

"Sleepwalker"のアルバム、"The Voyage"が良い。メロディもリズムも良いのだけれど、特に構成が絶妙だ。

時間の使い方が多様化する中で、音楽と真正面から対峙するっていう時間の遣い方が割をくっている。これは別の角度から見ると幸せなことでもある。それによりズームアウトして、生活のシングル・パーツとする聞き方が主流になった。一瞬のダイナミズムというよりも、曲を通して、アルバム全体を通して、リスナーにどういう時間の過ごし方を提供できるかが音楽のパッケージングとして求められている。

"Sleepwalker"のメンバーは皆、音楽的にかなりのレベルではあると思う。が、それに加えてDJ的な視点で俯瞰するプロデューサーの存在が大きい。単なる良質なジャズ、というだけなら、旧盤を掘り起こして聴いているだけでもかなりの遺産も持っているから、わざわざ新譜を聴く意味はない。音は最良でも、「聴かれ方」としてのメッセージを含んだ作品は移り行くライフスタイルの中で選択肢はリアルタイムでしからないから、その辺りを上手く突いた本作が魅力的に映るのは然るべきだろう。

先日も幾つかの新進クラブジャズ・バンドのライブを見る機会を得たが、音としては、申し訳ないけれど、まあ普通だ。聴いたことある感じ、と言えよう。しかし、曲順であったり、ソロ終わりの処理であったり、その空間に訪れた客がどんな楽しみ方をすればより素晴らしいか、予めメッセージを含んだ空間を創っている点でプロデューサーの力を強く感じる。もちろん、踊ろうが、飲もうが、喋ろうが、自由なのだけれど、その空間に有り得る各パーツを「選択」して提供することを表現と呼べる高みに持っていった彼らの存在は大きい。

音楽の聴き方をいちいち兎や角されたくない、という向きもあるだろうが、ソムリエの存在を否定する人は少ないだろう。ワインそのものを造ったのは彼らではないが、その案内人としての彼らの表現に感動することも多いからだ。音楽に於いても、そういった成熟したヒントの組み合わせを楽しめる時代がやってきたのだ。仕事に燃えるOLさんや、遊ぶのに忙しい女子高生の諸氏も、テレビやラジオのチャートから音楽を選ぶ、以外の選択肢がようやく開けてきたのだ、ということにしておきたい。

本アルバムの残念な点を敢えて挙げるとすると、ファラオ・サンダースのソロが期待程には突き抜けてなかったこと(これは全盛期を過ぎているので仕方ない)、吉澤氏の自宅で録っているので音質がイマイチ、といったところか。しかし、飲んでたりするとき程、格好良く聞こえるアルバムだ。私にとっては。ロック、お代り。
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2006年08月14日

内と外について

人を見た目で判断しちゃいけません、と多くの童話には書いてある。多くの人たちはそれを理解していて、私もそうあるべく努めているつもりだ。では果たして何を基準にしているのか。なんとなく、というのもある種の答えではあるが、それも解像度を上げて眺めると感覚的基準と感覚的判断の集合体に過ぎないので、突き詰めると何らかの材料に分類されることになる。

いきなりではあるが、結局のところ、コミュニケーションは言葉(私の場合は日本語)が多分に占めるため、記号と象徴の羅列である言語そのものが判断基準の大概を占めてしまっている。そして、ここからが重大な問題なのだが、その中身よりも言語の流暢さに傾いてしまっているということ。それは見た目で判断しているのと何が変わるのだろうか。言葉が表現作品、職務経歴などに置き換わってもそれは同じだ。器用に虚飾できる人間とそうでない人間とでは、グラフの目盛り自体の単位が変わってきてしまうので、一元化して比較することはナンセンスである。

Y女史はすぐに切符をなくしたり、外出3回に2回の割合で携帯電話を忘れたり、困ったちゃんである。しかし、食い物屋でここぞというときはハズレをひかないし、他人へのプレゼントなども失敗が少ない。私は産まれてこの方、財布を無くしたことはないし(インドの空港ですられたのは別にして)、急行と各駅を間違えたりしないのだけれど、プレゼントを選ぶのが下手である。

適当な相づちのレパートリーを幾らか持っていて、感じの悪い奴と言われることは少ない私であるが、本来は肉弾戦である筈の人生に於いて、強靱な人間力を持った彼女らを羨ましく思う、今日明け方。経験則に則り門構えでレストランを選ぶことに間違いがないと仮定すると、人間の顔かたちに刻まれる情報は時間的縮尺が大きく(長く)なるぶんだけ、雰囲気で他人を判断しちゃう方法もまともにも思えてきた。要は、経験則蓄積のクラスタである感覚野が濁っているか否かに問題の根っこがあるのである。

うーむ、新しいことを思いついた気がしたけれど、いつもと同じようなことを言っている。曲を作っているときと、同じだ。
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2006年08月08日

モモ

今日は凄まじく蒸し暑い。まるで、ぬるめの温泉に浸かってるみたいだ。電源の入った機材から、空中を伝って感電しそうな気がする。

数年ぶりに再開したという、カミさんの友人が出ているとのことで、渋谷にて「モモと時間どろぼう」を観劇した。20年くらい前にも同じタイトルを観たことがあって、つまり児童演劇だ。大人になってから観るような芝居は意識の分散を嫌ってか、深いところに行きがちだからか、大仕掛けの演出を見かけることは少ない。久しぶりに体験するこども向けのステージは実にダイナミックな仕掛けが満載だった。役者がステージから降りてきたり、役者が向かい合わせに座るセットが割れて上手と下手に離れていったり、天井まで届くような大きなセットが降りてきたり、そうそう、こんなんあったっけ。なんとなくだけれど、劇中で出てくる唄も覚えている。大仕掛けということでは昨今、テレビには適わないのかもしれないが、肉眼で見る目の前で展開される三次元の動きに、かなり小さい子どもも食い入るようにミハエル・エンデ世界に没頭していたのが印象的だった。そんな素敵な仕事を選んだ彼女を羨ましく思う。

この春から駐禁のシステムが変わり、緑色のおっさんが二人組でデジカメを使って証拠集めをしている。移動中にそんな光景を見かけたので、持っていたアイスを嘗めながら見物していると、一件に結構な時間をかけていることに気づく。クレームが多いだろうから、何かと注意深く行動しているようだ。まずターゲットを捕捉すると、そこが本当に駐車禁止の区域かどうか金角が調べる。その間、銀角はドライバーが近所にいないかキョロキョロ。そして赴ろにデジカメで広角と接写で車輌を撮影。書類になにやら書き込んで、対象の窓にお札を張り付け、完了。だいたい3分くらい掛かるようだが、その手続きの間にドライバーが帰ってくれば見のがす、と言っていた。虚ろな目でアイスを食ってるヤツがいきなり話し掛けてきたので、銀角はちょっと面喰らったようだった。制度自体に云々の議論はあるけれど、これも大変な仕事だね。違反をとられたドライバーに遭遇するとかなりの確率で文句を言われているようだ。あれ、オレは忙しいんじゃなかったのか?

会社に担当の税理士が来ていてちょっと話をした。頭が切れないと出来ない仕事なのだろうが、やはり氏も実に頭がよく廻るタイプであるようだった。自分としては店頭のことを考えるってのが仕事なので、商品の流れを中心に業務を組み立てるのだけれど、お金の流れも並行して戦略を立てないといけない、みたいなことを言われたが、危うく丸め込まれるところだった。彼も所詮経営サイド、「勝ち組」なんて言葉を発する奴は味方である筈がないのだ。今はそんなに仕事に熱中している時期でもないのだけれど、知らないでいてそういう奴らに騙されるといけないので、さおだけの本をもう一度読み返すことにする。日本人は難しい言葉を使う他者に弱い傾向にあるから、聞いたことさえあれば、そういうはりぼては紙屑になる。リスクヘッジ?ユビキタス?知ったことか。

台風7号が接近しているというニュースをやっていた。その影響か、さきほどから雨が降り出した。久しぶりのお湿りなので、土が水分を吸い込むときの匂いがする。夕方届いたFred Jhonsonのライブ盤を聴いているのだけれど、滑らかな男性ボーカルに向けておくられる拍手とトタンの屋根を打つ雨音が混ざって、溶ける。あ、やんだ。寝るか。
posted by abesin at 03:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類

2006年08月02日

南方

ここんとこ眠れない。また悶々と朝になった。

なんだか最近ひどく忙しく、神経が高ぶっているみたいだ。切り替えが上手で、電車でも寝ちゃう人が羨ましい。ポジティブであることは美しいけれど、嘘っぽい。布団の中で難しい本を読めば難解さに腹をたて、羊の数を数えれば旨そうで腹が減る。トルコやらカブールやら行きたくなる。ケバブ食いてえ。

夏は革のサンダルを愛用しているのだけれど、今シーズンで二つも鼻緒を切った。不吉である。上手い革製品の修理屋を知っていたら教えて下さい。ホントに。

m氏と、"無人島で一人、何を持って行くか"という話をしたら、糸のこぎりと言っていた。椅子やらテーブルやら作るそうな。飯は地面でも食えるが、そういうところに意地を張るのは人間らしくて素敵だ。反面、レコードやら楽器を持って行くヤツは無人島に携帯電話を持っていくようなものだと思う。音楽なんてそんなもんだ。

ローマ字の大文字が嫌いだ。なんでかといわれても、そうなんだ。幼少のみぎりは大文字の方がスクエアで格好いいと思っていた。自分は北国からやってきた気がする。自分の過去を思い出すと、寒い土地のイメージが、もれなくついてくる。なんとなく。未来を思うとき、そこが南国であって欲しいと感ずる。南方志向とローマ字の話は自分の中では同じ地平なんだけれども、分かって貰えるだろうか。ううむ。

一昨日はy氏とk氏と三人で夜半まで何やら語った。音楽やら人生やら女性観やら、くだらないことから四角い話まで色とりどりを、皆、まぁお前らだから言うけどさ、みたいな注釈をしながら喋り合った。自分が一番そういう言い訳じみたことを言いがちなんだけれど、それをおしてでも言う、探りつつ白状する、というキャッチボールがリアルに感じた夏の一夜。
posted by abesin at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類
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