2006年06月29日

基準について

K氏とレコーディングをしてきた。共作では久しぶりのスタジオだ。K氏曰く、久しぶりの録りだったが作業が早くなったという。

セッティング諸々はやってれば早くなるのは必然であるが、ディレクションというか、発想と決断というワンサイクルが早くなったのである。音楽は時間のアートであるから、その時々のシチュエーションで良しとする音が変わってくるのは然りであるけれども、ある一定の基準というか、良い悪いをジャッジする拠り所を得たということが大きいと思う。

判断基準は音楽だけに留まらず生きている時間のなかで常に必要になる。人間が二人以上集まって一つの作業をするとすれば、一定のコンセンサスを持ちつつテンポを作っていくことになるから、一瞬の思考の中で決断を下すためには確固たるものさしを持っている者が強い。我らも30歳を目前にして多少なりとも見えてきたのだろうか。

して、その判断基準についてだが、やはり一番強いのは生きて人と話し、物を食い、生活しているという強さだと思う。どんな瞬発力をもってしても、日々の暮らしの中で触れる事物からの影響は大きい。おっさんの説教ではないけれど、ちょっとづつでも毎日考えていることは気づきを得る可能性も多く含まれるし、出会いもある。我らが努力できる範囲など、間口を広くとって待っていることしか出来ないのだから。

歳をとればとるだけ、違う角度からの視点も理解できるようになって焦点がぶれてしまうこともあるけれど、生きて他人と関わっていけばいくほど、純度は薄れていくのが当たり前だし、輪郭の滲んだカオスの中から新しい価値を見出せることが格好いいと考えるようになった。表現とは言語であるから、通じる言葉でなければ意味がないのだ。例え文法がしっちゃかめっちゃかであったとしても、通じる他者が一人でも増えれば、そこに意味が産まれる。

インドの詩人、タゴールの舞踊劇「チットランゴダ」の中に、「恥じらう弱さは自分への侮辱」と歌った唄があるが、芸術としての純度を高めるために他者と関れる機会を減らすくらいなら、幾らでも恥をかいたらいいのだと思う。煮詰めて余分な贅肉を削ぎ落とすことによって産まれる表現を認めない訳ではないし、これまで沢山の感動を貰ってきたけれど、下らない会話の蓄積ほど人生の素肌感覚に近い気がする。きっと、自分が死ぬ瞬間には嫌という程それが有り難いと感ずるに違い無い。

関係ないけれど、栓抜きが見当たらなかったので歯でビールの栓を開けようとしたら奥歯が欠けてしまった。

ほんのちょっと関わったジャズバンド、quasimodeのアルバム「oneself-likeness」が発売になった。以前、レコーディングにお邪魔していた頃の雰囲気からは考えられない程カラフルな作品になっていた。特に曲順が素晴らしい。酒を飲みながら聴いているような場合、曲順がかなり重要なファクターになる気がする。
posted by abesin at 04:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類
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